日本の海軍機 写真特集
2019年12月05日
局地戦闘機「紫電」
局地戦闘機とは敵の大型爆撃機を迎撃するための戦闘機で、艦載機ではなく陸上基地からの運用を前提としていた。紫電は、川西航空機が開発していた水上戦闘機「強風」の機体を利用し、1942(昭和17)年から開発をスタート。離昇出力1990馬力の強力な「誉」エンジンと20ミリ機関砲4門(初期型は2門)を搭載、新開発の自動空戦フラップを備え、戦況打開の切り札となることが期待された。
44(昭和19)年2月から実戦部隊への配備が始まったが、誉エンジンが不調続きだったことや、主脚の構造が複雑で故障しやすい上、自動空戦フラップの扱いも困難で、シンプルな零戦に比べて操縦は難しく、パイロットを悩ませた。終戦までに1000機以上が生産されたものの、実戦では目立った活躍はできなかった 【時事通信社】
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局地戦闘機「紫電改」
実用性の低い紫電の機体を再設計し、主翼を低翼配置にして、故障が多かった伸縮式の主脚を標準タイプに変更、胴体断面も細く、垂直尾翼の形状も変えるなど、空力的な合理性を追求した。その結果、紫電の問題点はほぼ解消され、「誉」エンジンがスペック通りの実力を出せば、最高速力は時速600キロに達するだけの性能を持っていた。なお、紫電改は通称で、制式名称は紫電二一型。機体をさらに改良した三一型、エンジンを換装した三二型なども少数製造された。
紫電改の量産体制が整ったのは1945(昭和20)年に入ってからで、ようやく実戦部隊に配備されたのは同年2月だった。しかし、実戦では期待通りの性能を発揮し、その月に横須賀基地に配備された紫電改が単機で12機の米軍F6Fと渡り合い、うち4機を撃墜したほか、翌月には部隊ごと紫電改に改編された松山基地の第343航空隊が、米艦載機部隊との遭遇戦で1日に52機を撃墜するといった大戦果を上げた。海軍では、零戦の後継となる主力戦闘機として大量生産を計画したが、米軍の空襲で工場が機能せず、400機あまりを生産したところで終戦を迎えた 【時事通信社】
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水上戦闘機「強風」
飛行場のない最前線での制空権確保を目的に、陸上機とそん色のない空戦性能を求めた水上戦闘機で、1940(昭和15)年から川西航空機が開発を始めた。離昇出力1460馬力の「火星」エンジンを搭載することになったが、本来は双発機用の大出力エンジンを単発機に利用したことから、トルクを打ち消すことに苦労し、当初は二重反転プロペラを採用することになった。
42(昭和17)年に初飛行したものの、二重反転プロペラに不具合が発生し、量産型では通常タイプの3枚羽根のプロペラを装備した。ただ、量産が始まったころには戦況が悪化し、水上戦闘機の働く場はなくなっていた。性能も零戦にフロートを取り付けた二式水戦とさほど変わらず、活躍する機会もないまま、100機程度が生産されただけに終わった 【時事通信社】
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局地戦闘機「雷電」
日中戦争で中国各地の地上基地に海軍航空隊が展開するようになると、中国軍の空襲で大きな損害を受けることがあった。海軍はそれまで、戦闘機は空母に搭載する艦載機しか装備しておらず、迎撃を得意とする「局地戦闘機」という新たなカテゴリーの軍用機を開発する必要に迫られた。1939(昭和14)年9月、海軍が三菱重工業に開発を指示した「十四試局地戦闘機」は、来襲した敵機を迎え撃つために大きな速力と上昇力、強力な武装が求められ、艦上戦闘機に必要な運動性能や航続力は二の次とされた。
設計陣は、速力と上昇力を高めようと、大型機用に開発された離昇出力1460馬力の「火星」エンジンを採用した。火星エンジンは直径が1340ミリもあり、搭載するには機体を太くしなければならない。空力特性を高めるため、エンジンよりも前の機首部分を長くして先端をすぼませ、プロペラは延長軸で回すという苦肉の策が取られた。
開発途上でもさまざまなトラブルに見舞われ、エンジンをさらに大出力のタイプに換装するなどの改良を加えた上で、43(昭和18)年10月から量産型の配備が始まり、「雷電」の名称を与えられた。コックピットからの視界が悪く、離着陸時のコントロールも難しいなど、パイロットには高い技量が求められた。ただ、加速力、上昇力はわが国の戦闘機としては群を抜いて高く、太平洋戦争終盤には米軍のB29爆撃機の迎撃で大きな戦果を上げた。写真は雷電二一型(三菱重工業提供)。全長9.7メートル、全幅10.9メートルで、20ミリ機銃4丁を備えていた
「真珠湾の海軍施設で銃撃 数人負傷か 米ハワイ」
「関東北部で地震相次ぐ 震度3以上、関連不明」



