過熱報道で「市民を殺した」悔やむ元記者 雲仙・普賢岳噴火から30年

カテゴリー/ フリースペース |投稿者/ ビレンワークアップ
2020年11月17日

雲仙・普賢岳(長崎県)が噴火した1990年11月17日から30年。平成最初の大災害に取材は過熱し、91年6月3日の大火砕流では、避難勧告を無視して撮影を続けた報道陣に巻き込まれる形で、地元の消防団員や警察官らが犠牲になった。「他社より迫力ある絵(映像)を撮りたい、その功名心が何の落ち度もない市民まで殺してしまった。悔やんでも悔やみきれない」。駆け出しの記者兼アナウンサーとして現地で取材にあたった、長崎文化放送(NCC)の中尾仁(なかお・じん)さん(52)が当時を振り返った。(共同通信=石川陽一)  ▽避難勧告は「大げさぐらいにしか」  中尾さんはNCCが開局した90年4月に入社し、噴火時はまだ新人だった。同僚や応援で来た系列局の記者らと交代で現場の長崎県島原市に入った。噴煙を上げる普賢岳を前に「歴史的な一大事に立ち会っている」と胸が高鳴ったという。災害取材は初めての経験で「日本中の人に何が起きているのかを伝えなければ」と使命感に燃えた。

(写真:47NEWS)

 普賢岳の火山活動は一時的に弱まったが、年をまたいだ91年2月に再噴火が起こり、4月に入ると急激に活発化する。5月20日には後に「平成新山」と名付けられる溶岩ドームが新たに形成され、火砕流が頻発するようになった。中尾さんもしばしば全国中継でリポートした。  火砕流は高熱の火山灰や溶岩の破片、ガスなどが混ざり斜面を高速で流れる現象だ。時速100キロにも達し、遭遇すれば逃げることは不可能とされている。5月26日には小規模な火砕流に巻き込まれた男性が両腕にやけどを負い、噴火から初のけが人となった。  市は同日、普賢岳の麓の一部に避難勧告を出したが、報道各社は黙殺して取材を続けた。中尾さんは「行政が大げさに言っているだけ、ぐらいにしか考えていなかった。最初のけが人がやけどで済んだため、『巻き込まれても死なない』という誤った認識を持ってしまった」と打ち明ける。  当時、報道各社は溶岩ドームの先端から約3・5キロにあり、火砕流が下る谷の真正面を「定点」と呼び、撮影拠点にしていた。ここも避難勧告の区域内となり、市や県警は再三にわたって退去を求めたが、聞き入られなかった。中尾さんは「勧告区域内に立ち入るのは、ジャーナリストとして当然の権利だ」と考えていたという。むしろ、「報道の自由を当局が規制しようというのか」と反発さえ感じていた。

 
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